系図の歴史

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系図の歴史

江戸時代以前

日本は、中国や朝鮮半島とは異なり、科挙(官吏登用試験)による採用はありませんでした。公家や武家はもとより、明法博士、文章博士などの文官などもそれぞれそれを家業とする一族が従事し、その一族に連なる者でなければその職につくことは困難でした。公家の藤原氏一族に生まれたならば、どれほど武に秀でていようと武士になることは出来ませんでした。 公家、武家それぞれ以下の一族が有名です。 公家は、藤原氏一族をはじめ嵯峨源氏や村上源氏その他武家は、清和源氏、桓武平氏、利仁流藤原氏、秀郷流藤原氏、道兼流藤原氏、源融流嵯峨源氏、大江氏、橘氏その他、文官は坂上氏、中原氏、大江氏その他武士になるには傍流、庶流、枝裔であろうと清和源氏や桓武平氏あるいは秀郷流藤原氏その他に連なり、その流れを汲むことが都合がよかったのです。それゆえ、そのことを示す系図が必要とされたのです。その意味で、家系図は、本人の属する家の由来を明らかにする資料として江戸時代以前の封建社会にあって特に重んじられました。

江戸時代から明治時代

江戸時代においては家系図は現在の履歴書のようなもので、武士が仕官する際や富裕な農民や商人が郷士になったり、苗字帯刀(苗字の公称、大刀と小刀を差すこと)を許される時など、家の由緒を示すものとして必要とされ、装飾的というより、はるかに実用的な意味を持っていました。 しかし、ほとんどの家には身分を証明するための公的な家系図などはほとんどなく、そうした公的な家系図が必要になった場合は零落した名族、名門、名家の末裔の系図を買い取るか、同じ苗字の過去の名族との関係を創作して、先祖を名家や名族に結びつけた歪んだ系図を制作するケースも少なくなかったのが事実です。例えば、織田氏が桓武平氏であったり、徳川氏を清和源氏とする系譜も同様に創作されたといわれています。

明治時代から現代

現代において、家系図は履歴書の意味は持ち合わせず、昔のような実用性も全くといっていいほどありません。ただ、昨今の行き過ぎた経済至上主義がもたらす課題を数多く抱えるこうした現代だからこそ、いま一度原点を見つめ直し、自分の存在すなわち自分の役割は一体何なのか、そして先祖や子孫に対して果たしたいこと、さらには伝えたい想いといった精神的な部分に家系図が大きな役割を果たせるのだと考えます。

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