NHK総合テレビ「ファミリーヒストリー」で2012年のレギュラー番組化以降、
番組制作に協力してきた家系図作成の専門会社です。
コラム COLUMN
藤あや子のファミリーヒストリー|秋田に根差す家族の系譜をたどって
2025.10.11
昨年、歌手の藤あや子さんは、がんの診断を受けたことを公表しました。華やかなステージに立ち続けてきた彼女にとって、人生を大きく揺さぶる出来事でした。
そんな藤さんが今回「ファミリーヒストリー」でたどったのは、自らのルーツ。知らなかった先祖の歩みをひもとくことで、自身の生き方を見つめ直す旅が始まりました。
第1章 髙橋家の歩み ― 仙北の農村から
藤あや子さんの本名は高橋真奈美。1961年(昭和36年)、秋田県仙北市(旧・仙北郡園田村)の生まれです。父方・髙橋家のルーツを探る手がかりとなったのは、やはり戸籍でした。もっとも古い戸籍には、園田村の名が記されていました。家族史、家系図の調査において、戸籍をたどるのは第一歩。親族の記憶や残された資料と突き合わせながら、家族の系譜を形作っていきます。
藤さんのいとこの孫にあたる髙橋光さんの家には、代々伝わる古文書が大切に保管されていました。本家に古文書や位牌が残されているケースは多く、今回もそれが大きな鍵となりました。郷土史家の解読によると、その古文書には慶長元年(1596年)の年号とともに「高橋仁右衛門」の名が記されていました。仁右衛門こそ、藤さんがたどることのできた最古のご先祖です。
さらに文書には、髙橋家が八つの分家に分かれていったことも書かれていました。藤さんの父・定治さんは、その分家の流れにあたります。家系の広がりと分岐を確認することができるのも古文書ならではの強みです。
親戚の証言によれば、定治さんは民謡が好きだったとのこと。秋田には民謡文化が深く根付いており、藤さんの師匠・千葉美子さんも「秋田の生活には民謡が溶け込んでいた」と語りました。農村の人々が日々の労働の合間に歌い継いできた声が、藤さんの音楽的な感性に脈々とつながっているのかもしれません。
定治さんは戦前、工兵として日中戦争や太平洋戦争に出征しました。秋田県庁には「帰還者原簿」が残っており、そこに定治さんの名を確認できます。昭和16年に除隊となったものの、すぐに帰郷せず満州に残り、食堂を開いたと伝わっています。当時の満州の生活については直接の資料は乏しいものの、番組では大学教授の解説を交え、食堂経営に携わった人々の姿を描き出していました。記録が欠落する部分を、専門家の知見で補うことも歴史調査には欠かせません。
戦前の定治さんの姿を写した一枚の写真も、親戚の家から見つかりました。家族の誰かが撮りためていたアルバムや引き出しの奥から、意外な証拠が出てくることは少なくありません。写真一枚が、過去の姿を一気に具体的にしてくれます。
第2章 奥田家の物語 ― 旅役者の血脈
母方のルーツをたどるのはさらに難しい作業でした。藤さん自身、祖母が25歳という若さで亡くなったことしか知らなかったのです。母方は奥田家。戸籍をさかのぼると、仙北郡下延村(現・仙北市)にその名がありました。
秋田県公文書館には、山林や原野の所有者を記した資料が残っており、そこに「奥田三平」の名を発見できます。公的な文書に先祖の名が刻まれている瞬間は、家族の歴史が社会と接続する実感を与えてくれます。
三平の孫・義夫は明治初期に生まれました。親族によれば、義夫は役者をしていたと伝わっています。実際に、地元の神社には「奥田義夫」の奉納記録が残っていました。農村歌舞伎に関わっていた可能性が高いのです。さらに、神奈川近代文学館には「義夫の弟が残した回想録」が保存されており、そこには義夫が旅役者として全国を巡業していた姿が描かれていました。
藤さんの曾祖母は義夫の長女として誕生しましたが、その後、川瀬家の養女となりました。この事実も戸籍から明らかになったことです。戸籍を丁寧にたどることで、知られざる婚姻や養子縁組の事実が次々と浮かび上がります。
祖母ヤスエについては、地元小学校に学籍簿が残されていました。成績や出席の記録、時には写真も含まれる学籍簿は、個人の子ども時代を知る貴重な資料です。やがてヤスエは隣村の農家へ嫁ぎました。農家の場合、公式の記録が残りにくいのが実情ですが、番組では駒澤大学の研究者が農村女性史の観点から解説し、当時の暮らしを立体的に補っていました。
その後、ヤスエは病に倒れ、実家の川瀬家が引き取りました。川瀬家の人々はその出来事を代々伝え聞いており、藤さんは母方の祖母がどのような人生を歩んだのかを初めて知ることになったのです。
第3章 母の青春、そして角館へ
藤さんの母は地元の小学校に通いました。その時の担任教師が番組に登場し、母との思い出を語りました。恩師の言葉は時を超え、人となりを鮮やかに伝えてくれます。さらに担任は当時の写真も保存しており、母の幼い姿を今に届けてくれました。こうした写真は誰が持っているか分からないため、地道な探索が欠かせません。
成長した母は、父が営む精肉店でアルバイトを始めました。やがて結婚し、角館へと移り住み、夫婦で再び精肉店を開業しました。角館の町は武家屋敷で知られる観光地ですが、その暮らしの裏側で、藤さんの両親は日々汗を流して働いていました。近隣の住民は母の働きぶりや温かい人柄を今も覚えており、番組はその証言を通じて地域に根差した家族の姿を描き出しました。
終章 家族史が映すもの
今回の調査で明らかになったのは、藤あや子さんの血筋が秋田の土地と文化に深く結びついているということでした。父方は農業を営み、民謡文化に親しむ家系。母方は旅役者の血を引き、芸能的な素養を持つ家系。藤さんが歌に生きる道を選んだ背景には、この二つの系譜が重なり合っていたのです。
「ファミリーヒストリー」で用いられた調査手法は、一般の人が自らのルーツを調べる際にも役立ちます。戸籍、公文書館、郷土史家の知見、神社や寺の奉納記録、学籍簿や恩師の証言、そして親族が伝え聞いてきた物語。どの家にも残されている可能性がある資料や記憶を丹念に集めることで、家族史は初めて立体的に浮かび上がります。
藤さんは旅の終わりに「自分の中に歌の源泉が流れていたことを知った」と語りました。秋田の風土に育まれ、民謡の響きと旅芸人の魂を受け継いできた家族の系譜。その延長線上に、今も人々を魅了する藤あや子さんの歌声があります。